昭和43年3月5日 朝の御理解


御神訓X「神は昼夜も遠き近きも問わざるものぞ。頼む心にへだてなく祈れ。」
御神訓X「清き所も汚き所もへだてなく天地乃神はお守りあるぞ。我が心に不浄を犯すな。」


 「神は昼夜も遠きも近くも問わざるものぞ。頼む心にへだてなく祈れ」と。「清き所も汚き所もへだてなく天地乃神はお守りあるぞ。我が心に不浄を犯すな」私の頂いておる、神様にただいま誓詞を奉唱さして頂きました。そういう神様なんです。そこで、そういう神様を頂き、同時にそれを現すという事が信心であります。そういう神様をまず頂かなければなりません。同時に頂いただけではなくて、それを現して行かなければなりません。金光様の信心ちゃどういう信心か、どういう神様か。
 昨日、キリスト教の関係の方がございました。何かキリスト教の書物をここに売りに見えられた。まあずいぶん、ま、高いお書物らしい。ここを金光教と知って見えての事です。相当に、ま、心臓といやあ心臓、熱心といやあ熱心ですよね。しかも、そのもう、進め方がまた尚、熱心である。たちまち、家内が対応したところが話のわかる方にどうぞ、ここの教会長先生にどうぞ、言う様な意味の事を言われた。ちょうど午後の事でございますか、お広前には久富先生が奉仕しておられましたか、先生がもう事務所へ下がっておられる時、事務所に下がっておられた状態でしょう、言われましてから本の説明をされた。そこで久富先生が説明をされたわけですね。お道の信心を。私その事を聞かして頂きながらですね、お互いが、あのやはり、せめてこのくらいの所までは、お道の信心をわかっておかなければいけないなと私は思ったです。昨日は何々学会が来てから、もう強引に話をして行く。強引に、あのう自分達の信ずる宗教以外はも、邪宗邪教だと言うて行った。なかなか勉強しておる。非常に詳しく話して行ったと。話して行てもいいのですけれども、なら、私は自分の頂いとる信心もまた、この様に素晴らしんだという事の説明くらいできなければ、私はおかしいと思うですね。こちらの先生が気分でものを言うんな、あの買おうという事を決してなさらない。実は私も若い時にはキリスト教に帰依して、そして伝導までして廻った事があります。成程、素晴らしい教えに、まあ魅せられて若い信心を燃やした時代があった。こりゃあ久富先生の言なんですよね。そして終戦、そしてこの方というものは、お道の信心に自分がなったという事。ここの先生との御縁の、まあ始まり、そしてここでの御教えを頂けば頂く程に、お道の信心がわかればわかる程に、こりゃあたいした信心だ、たいした、ま、先生じゃ、とこう思うて私はおかげを頂いておりますと。とにかくね、宗教というものはですね、ね、もう生き生きとした働きができるという事がもう宗教の値打ちである。もうその働きがなされなくなったら、宗教の値打ちはもうない。そりゃあ、いろんな宗教活動を、仏教だってキリスト教だってしておりますけれども、そういう意味ではない。それはどこまでも神様とのつながりというものがです、今日私がいう、その、ね、神様を頂いて、それを本当に現して行けれるという事なんです。天地の親神様っていう方はこういう様なお方なんだと。天地の親神様のお徳をですね、自分の信心によって現していけれる。成程、この神様こそ世界中の氏子におかげを下さっておる神様であろう。また、それを悟らしてもろうて、この神様におすがりをして行けば、そういう天地のつながりも、こういうおかげも受けられる神様だという事をです、信奉者のひとりひとりが実証して行く信心があると、現して行く信心だと、ね。例えばこちらの先生なんか、もう自分であれを求めるという事をなさらない。あれが食べたい、あれが着たいという事もなさらない。これは、いわゆる二十年前から先生を知っている私がです、それをもう後からも前からも見えて来た。そこにはです、もう本当に天地とのつながりというものが、この様な微妙なものかという事を目の当りに見せて来られたんだ。ここの先生こそ天地のその働きをですかね、天地の親神様の働きを頂いて現しておいでられる方だと。私達は、その信心に魅せられて、十何年か信心を続けておる。もう一言一句もなし「はあそうです。そうです」私達も、まあ色々もっとつっこんだ話を皆しておられるんですね。それを、もう話すんじゃない、ただ聞くばかり。キリスト教の、その何で、一切はその書物に著してある、その実際の事がです、ここでは成されておるというをとですね、非常に感銘、ま、したふうに本当に、まあ、いわゆるお道で、いうならおかげを頂きましたといって帰られたというのである。だからせめて、そこの辺までぐらいはお互い頂いて行きたい。「金光様、だいたいあんたたちの拝みょうる神様は、どがいな神様だ」と言われても、よう説明もでけん。「天地の親神様」というとこだけではやっぱりいけない、ね。そこで私は思うんですけども、そういう神様をいよいよ現して行くという事がですね、様々な実証がなされるね、いわゆる宗教的実証なんだ、ね。それを、ま、御利益とも言う、ね。また、心の上に頂いて行くものでもある。どこからこの喜びが湧いて来るのか、ね。限り無いつきぬ喜びがある、ね。どこからこれは湧いて来るのか。その原動力になるものは、そこに神様の実態がある。その天地の神様の御実態というものと、私共の内容というものがです、ね、まあいうなら、それをキャッチするもの、それは自分の心、和賀心である。いうならば心の中にある受信機なのである。ね。天地の働きをキャッチしうる所の受信機、だからこの受信機が正確になって行かなければ、天地の親神様もわからない。また、現す事もできない、ね。受信機がいよいよ正確になって行かなければならんという事です。
 神様は昼夜も遠きも近い所も問わざるものだと、ね。頼む心にへだてなく祈れと。清き所も汚き所もへだてなく天地の神はお守りあるぞと。我が心に不浄を犯すなと、ね
。昨日、昨夜の、北野あきおさんが朝の御祈念に参ってみえて、また夜の御祈念にも参って見える。夕べのお届けの中に娘婿達、娘婿と娘の夫婦のお届けがあった。今、宮崎の方へ転勤になって行っております。だからいくら遠い所に離れてもです、ね、それこそ頼む心にへだてなく祈らにゃあいけんよという事を、ま、こんこんと二人に言うてあちらへ行かれた。だからせめて、おつきの世話だけは、の時には勿論拝み、ようがえもする。ああ、今日はあちらのお月次祭と思うて拝む事も拝む。けれどもね、その拝んでおる印をね、お初穂に現してね、私が代参してやるからお初穂だけは送っておいでと、秋山さんが教えておられた。そしたら、昨日、お一日のお月次祭のお初穂が、少し遅れましたけれどもというてお初穂を送って来た。私はそれをお取り次ぎさして頂きながら、実はですね、その事を思うたんです。そして、頂きながら私が聞かせて頂いたらそこを頂いた。そして、いうなら今日の御理解を頂いたわけです、ね。ですからですね、説明は久富先生が私を知られて、私を通してお道の信心を知られた。そしてその、生神金光大神、天地金乃神という神様を拝んでおるが、それを、んなら私が頂いて現しておる姿というものが、そのままお道の信心の説明なのである。しかも、それは生きた説明なんだ、ね。そこん所です、やはり皆さんはやっぱり頂いて下さらなきゃならん。そして皆さんもまた現して頂かなきゃならない。そして例えば、知っとるだけじゃいかん、ね。それには、私はこういう心がけが必要じゃなかろうかという事なんです、ね。清き所も汚き所もへだてなく天地の神はお守りある。我が心に不浄を犯すなと。
 今でもまだおられますが、たかしおさんがよくお付き合いの方ですけれども、秋山さんという方、もう十、五、六年も前の話です。おじいさんが長い病気で休んでおられる。下の病気である。御神米を頂いてね、ところが、そのね、頭痛がするとか怪我をしたとかという時に御神米皆さんはらしてもらいますよね。で、それをそこに頭にこうやってはります。おかげ頂きます。ところが、それがその下の方である為に、下に貼っちゃもったいないというわけで、もう貼られんとこういうわけです。ほいで私その時に申しました。もうそれこそ、清い所も汚い所同じだ。神様のお通いになった所は、ね、頭だから、ね、頭だから清いのであり、お尻だから清くないという事はないのだ。お尻にだってどこにだって貼っていいのだ。貼って英気を頂かなきゃ。けれども、私共はやっぱり下はもったいないなと思うけれども、そのもったいないという心でね、額ふじにも貼らなければおかげにはならんという事。ここならもう当たり前の様に思うとる、額ふじなら。下の方ならもったいない。厳密に言うたら人間の体ぐらい、いわば汚いものはなかろうとこう思う。いつだって汚いものの分泌がいつもあっておる、ね。不浄というたら、このくらいけがれとるものはなかろうとこう思う、ね。その為に水をかかる。まあいうならば、まあ清まった事は清くするけれども、清くするだけの話、ね。成程神様はへだてなく守っておって下さるんですけれども、こちらの心にも、だから不浄を犯してはならない。どこへだって、どこだってへだてなくお守り下さっておられる神様だという事、だからもったいないというなら、頭ももったいないであり、下の方ももったいないのである。下の方だけがもったいない。上の方はもったいなくない。ただ当たり前のこれではいけない、ね。頭の方が有難いなら、下の方も有難くなからにゃあいけん。それがへだてなく祈る事である、と同時に自分の心の不浄を犯さないという事はそういう事なのです。我が心に不浄を犯すな、ね。同時に神は昼夜も遠きも近きも問わざるもの。神様は、もうへんまんにしてござる。宇宙に、だからどこにおったって、ね。合楽にお参りしておろうが、宮崎の、いわば山の中におろうがです、ね、天地の親神様のお守りを下さっておる事は、もうこりゃあ事実であり、全くそうなんだけれどもです、その神様を頂いて現すという事にはです、こちらの、こちらの心がけがね、せめてお月次祭には、お初穂送らんのと、私が代参してやると、例えばお母さんが子供に教えておる様にです、祈る事だけはへだてなく祈っておる様であってもです、それは実が伴わないのだ。その自分の実のいわば印が、お初穂になって送って来る、ね。月に一回はテ-プを送ってやる。テ-プを繰り返しあちらで頂く。そこに私はへだてなく頂けれるおかげが現れるとこう思う。電話がかかって来る。お取り次ぎさせて頂く、ね。やはり、もうへだてなく祈らしてもらう。さあ、という間に合わんからお電話でお取り次ぎを願う。だからその願うその事だけではです、いわば神様を現す事にならん。頂く事にならん、ね。だからここへお参りをさせて頂いて、お願いをさして頂くのと同じ心もちが必要なのです。それがへだてなく神様を頂く事なんです。へだてなくお取り次ぎを願う事なんです。電話の時にお初穂もいらんちゅな事あってよかろうはずがない。お初穂がいらんて事があってよかろうはずがない。電話をかける前にまず、御賽銭を奉ってね、そしてお取り次ぎをお願い申し上げなければ、ただもう金光様の信心は、ね、天地にへんまんしてござる神様じゃから、どこにもここにも、いっぱい働きをして下さっとる神様だから、電話でお願いしたところで同じ事。けれどもそれではね、私はへだてなくお守り下さる神様をです、へだてなく下さるおかげとして現して行く事ができない。そういう心がけでは。私、昨日、その秋山さんのお届けさして頂いてそう思うた。あ-、へだてなくお守りあるぞという、そのお守りを守りとして現して行くのにはです、へだてないそういうね、実証がなされなければです、いけないなという事でありますと同時にですね、私共の頂いておるその神様は、ただいま私がお教え致しました、そういう、いうなら性質の神様、ね、もうそれこそ、宇宙にへんまんしておられる神様である。器量がええから悪いから、色が黒いから白いからでへだてをなさる様な神様じゃないけれども、こちらの受け心一つでです、その神様の働きを受ける事がでけ、またそれを現して行くという所に、生きた宗教の値打ちがある。どこを金光教の信心が邪宗か邪教か、こんなにま近でない実証があるか、天地とのつながりを絶ったら、一切の宗旨宗派宗教というものは、もうないも同じ事、天地の働きをもう現しきらない宗教は、もう死んだ宗教、ね。邪宗邪派に天地が働いて下さるか、間違った考え方の上に天地の働きをキャッチする事ができるか、天地の働きをキャッチし得るという所に、生きた信心があるのだという様にです、例えば久富先生が説明しておられる様にです、それをめいめいも、やはりそれをキャッチしそれをいわば現して行くね、受けてそれを現して行けれる信心を、本当に身につけて行かなければいけない。同時にそういう神様だからどんな汚い所におってもね、清い所におっても、ね、同じという、ただいう様な心では、やはりそれは横着になるだろう実態を欠いた事になるだろう。本当に汚い所こういう汚い所にまで、神様がお守り下さっておるんだという勿体ないという心をです、ここは清い所と思う所でも、それを頂いていかなきゃならない心がけとして、ね。同時にどこから願っても、どこから頼んでも、成程同じだけれども、そこにはそういう、いわば実意をです、現して行かなければそれを受けて現す事はできない。この辺の所をですね、皆さんようわからせて頂いて、おかげ頂かにゃいかんと思いますですね。どうぞ。